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政治経済学II レポート

グローバルになるもの、ならないもの

 

経済学部 経済学科 17050057

及川 祐輔

 

 


はじめに

 

グローバリゼーションが近年声高に叫ばれるようになってから、この概念は人々の考え方や企業の行動などに強く影響を与えている。例えば、ある人々は一元化する世界に対し、反対運動を起こしたり、またある企業は地球規模の戦略を考え、市場をローカルのものでだけでなくするために、世界中に拠点を置いたりするようになった。これはソニーなどのいわゆる多国籍企業だが、この数も少し前と比べると随分と多くなった。しかし、これだけグローバルないしグローバリゼーションという言葉が広がっているのにもかかわらず、その概念は人によってそれぞれ違うように捉えられており、かなり曖昧なものとなっている。

そこで、まずさまざまな角度からグローバリゼーションという現象を捉え、そうした後に実際にグローバルになりそうなものとなりそうにないものを分け、そしてさらにそのグローバルになりそうなものをもう一度見つめなおすことによって、グローバリゼーションというものを実在している具体的な概念やモノから理解しようと試みる。つまり、最終的には単なる言葉としての概念ではなく、実際にあるものから感覚的にかつ正確に、そして単純化してグローバル化していく世界の過程、すなわちグローバリゼーションを認識しようということである。

このようにグローバリゼーションを理解することの利点は2つある。1つは国際化との関連で後に議論することだが、グローバル化したものはそれがグローバル化したものであるという意識を人間に与えない。つまり、それが所与のものであるとみなしてしまうのである。これがグローバリゼーションを捉えがたくする1つの理由であるように思う。これを防ぐために、現実にあるものがグローバルなものかそうでないかを知っておくことが一番手軽な方法のように思う。したがって、グローバル化されているものを知ることは、人々がグローバル化したものをそうでないと錯誤しないように、すなわちグローバル化したものがきちんとそうであると認識できるように手助けをするという利点がある。

もう1つの利点は抽象的な概念から論理操作を行ってグローバリゼーションを定義するのに比べて、実際にあるものから還元してグローバリゼーションを捉えることにより、人々の間で感覚的にグローバリゼーションという概念を用いた議論が、簡単にかつ手軽に、そして正確にできるようになることである。つまりグローバリゼーションという概念をツール化してしまうということである。数学は、複雑な証明が背景にあるとしても、使用法さえ間違えなければその証明された結果、すなわち公式はいつでも利用できる。グローバリゼーションという概念に対して、論理的な背景を作り、なんらかの結果を得ることができるかもしれない。そのときに人々がその背景を知らないでも、現実に即した簡単な結果からの理解があれば、議論が込み入ったことにならずに、またグローバリゼーションという概念を有効に使えるようになるかもしれないという期待がここにはある。

実際には上のような展望があるわけだが、本稿ではある物質や概念がグローバルになるか、ならないかのみを扱う。

 

 

1.「国際化」と「グローバリゼーション」を区別する

 

 日本では、「国際化」と「グローバリゼーション」がはっきりとは区別はおらず、曖昧に使用されている節がある。『グローバリゼーション地球文化の社会理論』の著者R・ロバートソンは、「その訪日の折に、私はしばしば「グローバリゼーション」という言葉を用いたのだが、私は、ほぼすぐに、私が対話を交わした人々や私の聴衆が「グローバリゼーション」を「国際化」の意味に受け取る傾向があることに気づいた。」と述べており、また「私が「グローバリゼーション」という用語を用いて述べたかったことは、理解できるけれども残念なことに、「国際化」という用語によって伝えられる日本語の意味に同化されてしまった。」とも述べている。彼によれば、彼の来日した1986年頃においては、国際化は日本の政治論議や知識人の議論の中心的な用語であった。しかし1980年代の終わり頃から1990年代の初めにかけて、「グローバリゼーション」という用語を多用する論文が日本でも現れ始めたという。彼はこれを大変興味深い出来事と受け取っていたが、これは私も同感である。確かに「国際化」も「グローバリゼーション」も外国に向けて広がっていくという印象を持ちやすく、一見同じように見えるのかもしれない。しかし、英語にしてみれば明らかなように、国際化は「internationalization」であり、グローバリゼーションはもちろん、「globalization」と全く違うものである。R・ロバートソンはこの2つの概念を次のように区別していた。まずグローバリゼーションとは、「国を超えるとともに諸国の間で相互依存関係の程度をますます増大させる、1つの世界の縮小として描写されるもの」である。そして次に国際化とは、「ある国ないしは何らかの共同体が、1つの全体としての世界にもっと参画しよう、もっと影響を与えるようになろうとするやり方に言及するものであって、その1つの重要な様相は他の諸国および諸文明についてもっと学ぶこと、そして教えることなのである。」と述べている。この2つの違いの要点は、グローバリゼーションが「世界の縮小」であり、国際化が、「他の諸国および諸文明についてもっと学ぶこと、そして教えること」である。つまり、グローバリゼーションが文化ないし文明に対して、ある種の同質化を求めるのに対し、国際化はどちらかといえば互いに交わることはせず(交流をしないということではない)、異なったものとして理解しようということである。

 同じことなのだが、私はこの2つの概念の違いを、「内」と「外」という概念から理解した方がわかりやすくよいと思う。人間の意識に対してはじめから内包されているものは、そのものが実際はどうであろうとかかわらず、親近感を感じるものである。これから考えると「内」とは、あるのが当たり前すぎて、疑うことが難しいような状態のもののことを指す。これに対し「外」とは外見的にも概念的にもはっきりと区別することができ、別なものとして理解が可能ということである。例えば母国語と第2外国語の違いが例として挙げられる。母国語はなにも意識せずに会話や読み書きができるが、第2外国語は母国語を通して理解せねばならず、母国語よりも使用する違和感が大きい。すなわち、一般的に「外(外国語)」として捉えられるだろう。このように理解するならば、グローバリゼーションが「内」であり、国際化が「外」である。本稿では「外」の概念である国際化を捨象したグローバリゼーションのみを取り扱うことによって、グローバリゼーションをより限定した形で定義したい。

 

 

2.近代性・脱近代性とグローバリゼーション

 

 近代性とグローバリゼーションは画一化、統一化、そしてその影響の広がり具合という点で非常によく似ている。そのため、近代性の性質を調べることが、グローバリゼーションの理解への第1歩につながると考えられる。ところでグローバリゼーションという言葉が名詞として使用されたのは意外にも近年になってからのことである。グローバリゼーションという言葉は1980年代半ばごろまでは必要な言葉として認知されていなかった。しかし1980年代後半からその使用は一気に拡大した。この時期は、近代性が全くなかったというわけではないが、画一化を避けるための差異化という脱近代性の考え方も広まっていた。したがって、単純に近代性がグローバリゼーションになるというわけではないということがわかるので、近代性とグローバリゼーションとの関係を述べるのであれば、脱近代性とグローバリゼーションとの関係についても述べなければならないのは明白であろう。

 近代とはどのような時代だったのか、ということが非常によく問われているが、定義することが難しく、統一した答えは返ってこないだろう。したがってここでは、広い意味の近代性ではなく、近代に特有の都市化や産業化、社会システムのみの限定された近代性について取り扱う。これに対応して、脱近代性もこれらについてのみ取り扱う。これはもともと脱近代性というものが建築の統一された様式への反発からはじまったところもあるので、基本的な近代性とポスト近代性の概念はとりわけ都市化によって理解することができるだろうという考えからである。よってここでは、画一性、統一性もった時代のグローバリゼーションとそれに反発した時代のグローバリゼーションの広がり具合を比較することにより、グローバリゼーションがどのような様相を持っているかを観察し、進歩主義や文化相対主義といった思想や、文明(物質面)、文化(精神面)の違いがどの程度グローバリゼーションの進行の速さやグローバル化するものの多さに影響を与えるかを検討する。

 

2.1近代性とグローバリゼーション

 まず近代性とグローバリゼーションの関連について述べるが、ここで注意したいことは近代性の直接的な帰結がグローバリゼーションではないということである。前にも述べたように、グローバリゼーションという言葉が登場した時期からも明らかであるし、またグローバリゼーションという言葉自体はなくとも、その概念の本質的な部分はもっと以前から、つまり前近代からあったのではないかという疑いも捨てきれないからである。実際、グローバリゼーションを単純化して考えれば、ある地域の風習や技術をそれとは違う地域に対して浸透化させるというだけの話であり、このような行為が近代から突然に始まったというのはとても考えづらい。R・ロバートソンも「世界のいわゆる知られていなかった諸地域を発見した決定的な大航海はいうに及ばず、仏教、キリスト教、そしてイスラームの興隆、あるいは何世紀も前の地図の編纂など、グローバリゼーションの多くの様相は、「前近代」のグローバリゼーションの活力に満ちた様相であった。」と述べている。したがって、近代性そのものをグローバリゼーションと捉えることはいささか軽薄であるように思われる。さて、そうはいうものの近代の持つ多くの様相がグローバリゼーションの概念と一致しているように見えるのは事実であるので、近代性そのものがグローバリゼーションではないということに十分注意しながら議論を進めていくことにする。

 まず都市化について考えると、建築技術の発展、特にその技術工程の標準化によって、同質的な建築物の大量生産が可能となってから、似たような建物や同じ構造を持った都市が次々に登場した。はじめは地域的なものであったにもかかわらず、西欧諸国の帝国主義的な政策によって、全く異なる地域に西欧の技術が導入されたり、また日本のように西欧化をめざしたりする国の方針などによって、世界の都市の多くは西欧的なものとなっていた。またこのような流れにより多くのものが産業化し、そして民主主義などといった社会システムの西欧化も進んだ。これだけを見ると、近代性の性質である都市化と産業化、そして社会システムの変容がそれぞれ同時に起こっており、かつそれらが世界中に大きく広がっていくような様相を示していると考えられなくもないだろう。しかし、近代性だけでこのような流れが生じたとは言いがたい。それは当時の西欧諸国の帝国主義ないしは進歩主義といった概念が強くこの現象を後押ししているのではないかと考えられるからである。

 進歩主義とは簡潔に言えば、人間もしくは人間の社会は時間とともに発展していくのであり、現在遅れている原始的、野蛮なものは将来必ず発展して先進的なものになるので、そういったものを積極的に新しくしていこうという考え方である。このような考え方に基づけば、新しくされる側の若干の抵抗はあるかもしれないが、近代化によって技術的にも社会的にも優れている方が文化・文明的に侵食できる可能性は大きかった。実際に西欧諸国はこれに成功し、世界は瞬く間に西欧中心的な考えになっていったのである。ここで述べたかったことは、このような世界的な広がり、すなわちグローバリゼーションは近代化の性質に裏づけされたものであり、そして何らかの考え方によってその広がりを速めていったということである。これは考えてみれば当たり前の話である。近代化による合理的なシステムや技術が従来のものと比べて、優れているからこそこうした広がりの原動力になっていることは自明であるし(わざわざ劣っているものを導入したり、また導入されることを要望したりすることはめったにないであろう)、技術やシステムといったものはただそこにあるだけでは広がっていかず、進歩主義等といった思想や考え方がなければ、技術やシステムはもっとゆっくりとした過程で、あるいはそもそも広がらなかった可能性も十分に考えうるだろう。つまり、グローバリゼーションというのは2段階に分けて考えることができる。1つ目の段階は、グローバルになるものに優れた要素があったり、導入するメリットがあったりしなければならないということである。2つ目の段階は、グローバルの進行の速さによって、グローバルになったり、ならなかったりするものが出てきて、そしてその速さは人々の考え方によって大きく変わるということである。またこの2つ目の段階を考えるということは、1つ目の段階において、潜在的にグローバリゼーションとなりうるものも考えていることになる。今現在実際にグローバルなものとして認識されていなくても、人々の考え方の変化によって今後広がる可能性も視野に含める。そうことによって、本質的にはグローバルになる要素、すなわち1つ目の段階のみを持つものもグローバリゼーションの一要素として認識することができる。それがグローバリゼーションの理解につながるのではないかと考える。

 

2.2脱近代性とグローバリゼーション

 脱近代は前にも述べたように、とりわけ建築物の一様性への反発からはじまったが、この概念はそれだけにとどまることはなかった。脱近代性の概念によって、一部の人々が近代性、あるいは西欧の帝国主義的、進歩主義的な考え方に対しても反発を起こしはじめ、その結果、現在の反グローバリゼーションの活動につながった部分も大いにあるだろう。しかし、脱近代性という概念を近代性の観点から捉えようとするといささか疑問点が生じてくる。第一に、近代性は文化・文明ともに社会に対して大きな影響を与えてきた。しかし脱近代性は最初こそ、建築といった文明機器に対して起こした反発であったが、後に行くにつれ、文明から文化もしくは思想へと反発の方向を移して行った。そして結局、文明的なものに対してはあまり脱近代性というものが叫ばれなくなってきたということが1つ目の疑問点である。第二に、脱近代性は「脱」という接頭語が付いていながらも、近代性の様相を必ずしも排除しているわけではないという点である。脱近代性という概念を使い始めたときには、おそらく「近代に取って代わるもの」という意味でこの語を使ったということは想像に難くない。しかし脱近代性の実際のところは、例えば何かの製品の見た目を少し変えるといった場当たり的な対処をしているものがほとんどであった。つまり、技術とか生産システムを変えるといった根本的な部分には脱近代性はあまり関わることができずに、近代から発生している効率のよい技術やシステムを結局のところ脱近代の時代でも使っていたということである。これは脱近代性が叫ばれてからも、産業もしくは社会システムの変化がほとんどなかったことから見ても明らかであろう。産業に関しては多国籍企業の増加など、より近代化の様相を示しているし、社会システムに関しても民主主義、資本主義といったものからあまり変わってはいないのである。

 実際のところ、R.ロバートソンも述べているように脱近代性の問題は、その狭い意味での近代化論争において、(かなり狭い意味で認識された)近代性「の後に何か」があるはずだという相当に単純な考えで発生したことに留意しなければならない。狭い意味での「近代性」とは、教育や職業、識字率、所得及び財産など、客観的に測定できる属性にのみ言及した近代性である。先にも述べたように、客観的なもの、すなわち都市化(道路や上下水道の整備など)や産業化(生産システムや技術の発展など)といったものに対しては、近代と脱近代ではほとんど考え方に差がない、というよりは差をつけることが難しかった。そういった文明的なものに関しては近代のものの方が優れていたからである。

 こうして脱近代性はそのほとんどがすぐに近代性という概念に取り込まれてしまった。つまり、脱近代性を理解するときには実は根源的なもしくは再帰的な近代性として捕らえたほうがより適切であるといえる。それでは脱近代性に関する議論は全く意味をなさなかったのか、というと必ずしもそうであるとは言えない。脱近代性は「多様性」と「文化相対主義」という概念を残していったからである。そしてこれにより、脱近代性の2つの疑問点(文明から文化へと反発がシフトし、文明に対して脱近代性が叫ばれなくなったことと、近代性の様相を排除的できていないこと)を解消できると私は考えている。

 まず「多様性」と「文化相対主義」の概念を説明する。「多様性」とは文字通り、いろいろなものや考え方があるということであるが、ここでは特に1つのものに対して、代替的なものが選択できたり、ある物事に対する考え方についていろいろな意見があったりしてもよいということを指す。「文化相対主義」は多様性という概念の中に含まれているもので、とりわけ文化についての多様性を認めるという考え方である。文化相対主義は進歩主義との比較対象としてよく用いられる。進歩主義がある優れた文化を、優れていない、野蛮な文化に押し付けるという概念であるのに対し、文化相対主義はそれぞれの文化に優劣をつけず、認め合うという概念である。

 次に脱近代性の2つの疑問点がどのようにして解消されるかを説明するが、先に提示した文化相対主義という概念を見て疑問に思って欲しいことがある。それは、なぜ「文明相対主義」と言われなかったか、ということである。答えは簡単で文明は優劣がはっきりと付けられるからである。つまり文明は客観的に評価可能であり、優れているものは皆導入したいと考えるのが自然であるから、最初から相対的という概念がほとんど存在しないのである。この結果が示していることは2つあって、1つはもの、すなわち物質は少し色を変えるといった微妙な差異化はできるが、機能的には優劣がはっきり付けられるから、本質的な多様性を持つことは難しいということである。もう1つは、主観的にしか評価できないもの、すなわちどちらが優れているかということがはっきり決められないものは、相対的にも絶対的にも考えることができるということである。実はこの2つが先の疑問点を2つとも解消している。文明から文化へと反発がシフトし、文明に対して脱近代性が叫ばれなくなったのは、文明化によって生み出されたものは、本質的な多様性を持つことが難しいが、見た目を変えるといった微妙な差異化で画一性を一応は否定できるから、批判する必要があまりなくなったということではないだろうか。そして脱近代性の議論は結果として、優劣の付けがたい思想や文化の広がり、すなわちアメリカナイズやグローバルな文化を批判するといった方へと移っていったのではないかと考えられる。また脱近代が近代性を排除できないのはもっと明らかで、脱近代は近代的な文明をほとんどそのまま受け継ぐしかなかったということである。

 さて、以上の議論より脱近代性の観点からのグローバリゼーションについて考える。結局のところ、脱近代性という概念は、一元化の否定である反グローバリゼーションという立場を採ってはいるが、それは文化に対してのみ有効な思想となってしまい、文明に対して、本質的にはあまり変わることができなかった。ただ、文化的なものに対しては、多様化や文化相対主義といった思想を提示したことによって、近代化といっしょになってグローバリゼーションを促進していた進歩主義というものに対抗できるようになった。それによって、急速に進んでいたグローバリゼーションの速度をやや遅くすることや本来グローバル化する必要のないものをグローバル化しようとしていた風潮をとめることができたのではないかと考えられる。これは脱近代性の一つの成果といえるかもしれない。

 

 

3.グローバルになるもの、ならないもの

 

 最初に今までの議論を少し整理すると、

     国際化とグローバリゼーションは違う

     グローバル化されたものは親近感が強く、そうであると意識しづらい

     近代性だけではグローバル化しないが潜在的にグローバル化する可能性は持っている

     グローバリゼーションを促進したのは近代性だけではなく、それに付随した進歩主義という思想である

     脱近代性は近代性の文明には影響をあまり与えなかったが、近代化の思想や文化といったものに対抗する多様化や文化相対主義という思想を持った

     その結果として、急速なかつ一方的なグローバリゼーションが批判対象となった

ということである。これらの議論に基づいて、グローバル化しているものとグローバル化していないものを具体的に検討し、さらに議論を進めていくことにする。

 まず日本の朝食について考えてみる。日本の朝食は戦後のGHQの政策によってある時期からパンも食卓に並べられるようになったが、依然として朝はご飯と味噌汁、そして焼き魚などといった和食が中心である。昼食や夕食は洋食や中華、和食といった雑多なものから選ばれることが多くなったが、なぜ朝食はあまり変化がないのであろうか。それは朝食が日本に生活に根付いたもの、すなわち文化的なものだからである。食事にはこうすれば必ずよくなるという合理的な考え方はあまりないだろう。この例からわかることは、文化的なものはしっくりこないなどの何らかの理由があれば、いくらグローバル化(この場合は日本人の朝食にパンを根付かせようとした)しようとしても、うまくいくとは限らないということである。とはいうものの、朝食にパンが出ても、あまり違和感がないだろう。しかし、だからといってパンが食卓の中心になっているわけではない。これはパンがご飯に取って代わられることは望まなかったが、たまに出るぐらいの頻度なら特に気にしないということである。つまり、考え方、思想によって、文化的なグローバリゼーションはどの程度容認されるか変わる。これらを近代性、脱近代性とグローバリゼーションの議論と対応させると、次のようなことがわかる。進歩主義といった考え方を持って、文化的な何かをグローバルにしようとしても、何らかの理由によって完全に導入することは困難であり、その最たるものが反グローバリゼーションである。仮に導入できたとしても、人々の生活になじむまでに時間がかかる上に、文化相対主義といった考え方から若干の抵抗があったり、多様性が生じたりすることで、深くは浸透しにくい。そしてどのくらい浸透するかはその容認される程度によって決まるということである。要するに、文化的なものは、グローバルなものになりにくく、なったとしてもその広がる速度は一般的にあまり早くないということである。もちろん例外もあって、例えば日本はもともと他の文化の導入を昔からよく行っていたし、Beatlesなど、音楽が比較的速い速度で世界的に広がっていったケースもある。しかし一般にある地域的な文化に対して他の文化が一方的に侵略すれば、抵抗も大きいだろうし、また同じ地域に住んでいるといっても、人の考え方はそれぞれ違うものであるので、一度に同一の文化が広がるということは難しいだろう。音楽に関しても、大半のものが世界どころか地域的にも広がらない。したがって、繰り返しになるがここでの結論は、文化や慣習、思想といったものはグローバリゼーションとしての導入が困難であり、その伝播速度も遅いということである。

 次に技術的なものについて考える。これは前にも述べたように、近代性との関連があり、優劣が付けやすい合理的なものであるから、潜在的にはグローバル化しやすい。例えば、MicrosoftWindows95以降がそれに当たるだろう。それ以前は、パソコンは一家に一台あるようなものではなく、ヘビーユーザー向けのものであると認識されていた。しかし、ほぼマウスのみで操作できる簡便性とわかりやすい画面レイアウト、ユーザーインターフェイスが受け、一気に世界中に広まった。そしてパソコンなど縁がなかった家庭にも導入されるようになった。さて、このようにWindowsが潜在的に広がる可能性を持っていたことは明らかであろうが、本当にこの優位性だけで世界中に広がったのであろうか。それはMacintoshというもう1つのパソコンを考えてみることで明らかになる。Macintoshは、近年でこそ、iPodなどスタイリッシュなものを作っているというAppleの戦略によって、デザイン性が高いというイメージがあるかもしれない。しかし元来はWindowsよりもさらにコアなユーザー向けのパソコンであった。当時のWindowsMacintoshは機能的には互いに一長一短があり、優劣がつけがたい状況であった。しかしその後の展開はWindowsの圧勝となり、Macintoshは市場シェアの縮小を余儀なくされた。このような差がついたのは、おそらくWindowsの簡便性の強調とインターネットの普及への戦略だったのだろう。Microsoftはとにかくパソコンやインターネットが簡単に使えることを強調していた。それに対しAppleはそのような主張はあまりしていなかったように感じられる。これが差を生み、このような市場シェアの結果を生んでしまったのではないかと考えられる。つまり多くを取り込むというグローバルな考え方が勝敗を分けたと言える。これから鑑みるに、グローバリゼーションというのは、あるものがグローバル化する潜在性とそのグローバル化しそうなものを積極的に広げていくという考え方によって大きく左右されるのではないだろうか。これは近代性とグローバリゼーションで述べたように、近代性は進歩主義という思想をもって広がったことと同様である。ここでの結論として、技術といった優劣の付けやすいものは、潜在的にグローバル化する可能性を大きく持っている。またそれがグローバル化する速度は、考え方によって随分と差がでるということである。そして可能性としては、広める意思があまりなければ、潜在的にグローバル化する可能性があっても、グローバル化する速度が遅すぎるため、実際にはグローバルなものとして現れてこないということも十分にありうる、ということも示している。だが文化的なものと比較すれば、抵抗も少なく、何か優れたものや技術はグローバルになりやすいということが言える。

 グローバル化するか判断が難しいものとして、社会システムが挙げられるだろう。社会システムは文化的要素と文明的要素を併せ持っているからである。例えば民主主義は先進国では導入されていないところはおそらくないだろう。しかし発展途上国といったところでは独裁的、軍事的な国家もあるだろう。これは資本主義や社会主義の国が存在するといったところからもわかる。また発展途上国などは社会システムを整備する十分な素養を持つことが難しいのかもしれない。それは教育水準の問題であったり、金銭的な問題があったりして、導入したくてもできないか、そもそも導入する必要がない社会環境だということが考えられる。いずれにせよ、文化的要素と文明的要素を同じくらい持っているものは、判断が難しいだろう。

 最後にグローバルであるという錯誤とグローバルではないという錯誤について扱う。まずグローバルであるという錯誤について述べる。例として、「国際的な立場で考える」ということがグローバリゼーションであると考えている人がいるとする。しかし「国際的な立場で考える」ということは国際化の考えである。いろいろな国の立場になって、考えていくということは、「国」という単位で別々に見ていくことであり、そのためには相手の国の状況をよく知らなければならない。そしてこれは1.の部分で述べた「他の諸国および諸文明についてもっと学ぶこと、そして教えること」に相当するからである。しかし、やや込み入った議論になるが、「国際的な立場で考えるということ」はグローバリゼーションである。なぜなら、新聞や人からの伝聞などによって、「国際化の時代だから、国際的に考えなければいけない」ということが広まっており、またこれに異論を唱える人は少ないからである。そしてこのような考えは先進国を中心に世界中に広がっているから、思想的なグローバリゼーションであるといえるだろう。

またグローバルではないという錯誤は次のような例である。中国では日本製品が反日活動によって、多くのものが廃棄されているが、日本製であっても売れている商品がある。それは無印良品が作っているもので、なぜそれが売れるのかというと、文字通り「無印」だからである。つまり商品にイデオロギー的な要素が全くないので、排他的に扱う必要が全くないのである。しかし実際には日本の製品である。中国でそれを使っている人々はそれが日本製だということに気づいてはいないのかもしれない。もしくは気づいていたとしても日本的な要素がないので、捨てる必要もないと考えているのかもしれない。後者の場合はグローバルであるときちんと認識できているが、前者の場合、人々はグローバルではないという錯覚を起こしている。

最初に国際化とグローバリゼーションの違いを述べたが、このようなグローバルであるという錯誤とグローバルではないという錯誤を防ぐために、この違いが非常に有効なものであるということがわかるだろう。グローバリゼーションの難しいところは人間の生活に密着していたり、人間の意識に取り込まれていたりして、気づきにくいという点である。したがって、グローバリゼーションを一番よく理解する方法は、ある程度理論的な分析を行い、そしてその観点から多くのグローバルになっているものを知っておくことであると言えるのではないだろうか。

 

参考文献:

R・ロバートソン著 阿部美哉訳:『グローバリゼーション 地球文化の社会理論』 東京大学出版会 1997

ジョン・トムリンソン著 片岡信訳:『グローバリゼーション 文化帝国主義を超えて』 青土社 2000

伊藤章編著:『ポストモダン都市ニューヨーク グローバリゼーション・情報化・世界都市』 松柏社 2001

ウェイン・エルウッド著 渡辺雅雄・姉歯暁訳:『グローバリゼーションとはなにか』 こぶし書房 2003

ジョン・グレイ著 石塚雅夫訳:『グローバリズムという妄想』 日本経済新聞社 1999

光田明正著:『「国際化」とはなにか』 玉川大学出版会 1999

http://jp.wikipedia.org/ の「グローバリゼーション」の項